幸福という概念が抜け落ちている

今日は地元の居場所活動に参加して来ます。
でもどうなんだろう?
デイケアに行き、居場所活動に参加し、ネット通話に参加する。
今のこの生活、、、本当に自分にとってためになっているのか?
本当に自分の幸福にとって良いおこないになっているのか?
多少疑問ではあります。

現に、最近はストレスを溜め込んでしまっている様で、お菓子をやたら食べたくなったり、睡眠が足りなく感じたり、、、人に嫌われている様な感覚に陥ってしまったり、、、
結構心と体がSOSサインを出している状況ではあります。

ひきこもりや精神病の問題を議論するにあたって、日本で忘れられがちなのが、個々人の幸福の追求、幸福をどう成立させるかというテーマです。
今、イギリスか何処かでは孤独省というものが設立されて、広く孤独問題に対応していく省が出来た様です。
なぜ、その話題を出したかというと、孤独省、孤独問題に対処するというのは、人々の幸福を追求するという概念から成り立っているものだからですね。
孤独だから駄目だ、引きこもっているから働け、病気だから元気出して働けではなく、、、
働けない人は働けないなりに、どう幸福を追求して生きていけば良いのか?
ひきこもりはひきこもりながらどう幸福を追求し、生きていける環境を構築していけば良いのか?
そう言った視点からの議論が、日本では欠如し気味な様に感じます。


つまりですね。
真の意味での働けるなら働いた方がいいというのは、、、日本の様に働け働けという意味ではなく、
個人の幸福の追求という意味で、自立した生活を送り、自分の好きなものを食べたり自分の好きなものを買ったりできる生活の方が、より幸せになれますよという意味で、働ける様になろう、という話になっていると思うんですよ。
より社会福祉や個々人の幸福をちゃんと追求している社会では。

幸福という概念が抜け落ちている。
人々の幸福を最重要項目にせずに、全体主義的な価値観を先に持って来ても良い事なんてないです。
人に何と言われようが、自分の、愛する人の、友人の、、、人間愛を向けるべき相手への幸福の追求を、おおよそ全ての人間の幸福の追求を最重要項目にして生きましょう。

さて、私が、、、そういった働け働けという様な類の、世間的な価値観を内面化させずに活動するとどうなるのか?
或いは、既に内面化してしまった世間的な価値観を取っ払う様に努力して生きるなら、どう活動していくのが良いのか???
私は、自分自身のひきこもり問題において、重要なのは何をするかとか、どこに通うかではなく、、誰と付き合うか、、、どんな人のいる所に行くのかだと思いますね。
いろんな施設などの活動内容よりも、人人ひと。
私個人の幸福の追求には、、、関わる人たちの人となりが大事だと思っています。


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